2019年の受験生報告③

遅ればせながら、今年の合格生徒の報告の第3弾です。

ベイタウン在住の生徒ではないのですが、SAPIXの生徒で小学5年生の夏から指導を開始し、市川・東邦大東邦・早稲田中に合格しました。渋幕は不合格、慶應は筆記試験に合格しましたが、棄権しました。

この生徒(A君)は、僕が指導を開始した頃、SAPIXの偏差値が45程度で、50を超えたことは一度もないという状態でした。ご両親は本人に任せるタイプで、「受験したかったらすればいいし、嫌ならいつでもやめていいんだからね」といつも言っていました。ご両親が生徒の勉強を細かく管理することはなく、サピックスの宿題をこなしているだけでした。

ですが野球が好きだったA君は、早稲田に憧れるようになりました。大学野球の影響ですね。学校見学で部活も見て、早稲田実業より早稲田の方が合っていると感じたようです。実業の野球部は厳しすぎると感じたようです。ご両親も「本人が早稲田に行きたいから頑張るというのであればいくらでもサポートする」ということで、僕が指導に行くことになりました。

僕の経験上、「ほったらかしの状態」でSAPIXになんとか食らいついていた生徒というのは、最後に一気に伸びる傾向があります。親が厳しく勉強を管理して、習い事や家庭教師でビッシリ予定が埋まっている、という生徒は直前期に息切れしてしまいます。「やらされている」「勉強に嫌気がさしている」「自分で自分の弱点を見つけようとしない」生徒は伸びないんですね。大人の世界では当たり前のことなんですが、積極性が何よりも大切だというのは、子供でも変わらないんです。それを忘れがちのご両親が多い気がします。あるいは忘れてはいないのですが、放っておくとあまりにも勉強しないので、厳しく管理するようになるのかもしれません。

僕が生徒を見るときは、様々なワザを駆使して、生徒の積極性を潰さないように気をつけています。

ともあれ、A君はそれまでにチャージしていたパワーを解放するように、勉強を始めました。非常に積極的で、僕の指導の日にはいつも、一緒にやりたい勉強を準備して待っていてくれました。

基本的には1週間に溜まった質問に答えるという形式でした。非常にシンプルですが、この形式は一番効率が良く、伸びやすい勉強法です。というのはこれまで述べてきたような「積極性」を潰さない形式だということです。小学生は基本的に素直ですが、それでも自分でやりたくない勉強を先生に強制されるのは嫌なものです。まして、塾や学校で散々課題を出されていて、それがしっかりこなせていないからこそ成績に問題を抱えているのに、家庭教師が来てさらに課題を追加されては嫌になってしまいます。

また生徒のやる気を潰す大きな要因は、わからない問題が溜まって行くのに、それを解決する方法がないことです。いつもモヤモヤした状態で、両親に聞いてもすっきりしないし(時には自分でやりなさいと怒られたり)、調べてみても辞書や本に書いてあることは抽象的で意味が分からないし、質問教室は混んでいて少ししか質問できないしで、いつのまにか「そうしたモヤモヤした状態が普通なんだ」「勉強ってこういうワケの分からないものなんだ」と勘違いするようになって、勉強そのものに対して嫌気がさしてしまうんですね。そして暗記だけで全てを済ませようとして勉強の方向性を誤ってしまう。こうなってしまった生徒の方向性を修正するのには時間がかかります。

幸いA君に関しては、やる気はあるし、分からないところは徹底的に考える素地が備わっていました。僕が説明しても、完全に理解できなければ彼は納得しませんでした。彼との勉強は僕にとってかなりハードなものでした。何しろ中途半端では納得してくれませんし、相当に難しい過去問などを教科を問わず次々に質問されて、その場で解き方を説明しなければならないのです。難関校の過去問を解説する時などは1問に30分以上かかることもありました。用意されていた質問に答える時間が足りず、別の曜日に授業日を追加することもありました。

彼は積極的でありながら、非常に謙虚な面もあって、僕に対する敬意を忘れず、もっと成績を伸ばすにはどうしたらよいかと色々質問してくれました。「これやったらいいんじゃない」「それは別にやらなくてもいいんじゃない」「過去問はいつからやるのか」など色々とアドバイスしましたが、僕の方から特に強制することはありませんでした。

結果、1年ほどで指導前よりもかなり偏差値(SAPIXで10くらい)が上がり、志望校に合格できました。いつも言っているのですが、受験に奇跡はありません。「偏差値が何十も上がって合格した」という広告文句を信用してはいけません。〇〇の塾に通えば偏差値が上がるとか、〇〇に習えば必ず志望校に合格するなどということはありません。彼の成功は上記のような条件が噛み合ったからです。

両親にとっても教師にとっても、「生徒のやる気を潰さないようにすること」「生徒が疲れすぎないようにすること」、そしてもちろんその中で「出来るだけ本質的な勉強させる」が大切だと思っています。「生徒のやる気スイッチを入れてあげる」いうアクティブな方向性ではなく、「やる気を潰さない」「やる気が出てきたら伸ばしてあげる(疑問点をクリアにしてあげる)」というパッシブな方向性が正しいのではないかなと思っています。むしろそれが「やる気スイッチを入れる」という本当の意味ではないかと思っています。

2019年の受験生報告②

今年の受験生の報告、第2弾になります。今年の受験生報告①(中央法学部合格)は、以前のブログ(アメブロ)の方にあります。

この生徒(A君とします)は浪人生で、10月の終わりに依頼を頂き、国語を指導しました。結果から言うと、慶應の経済学部に合格しました。

彼は本来理系で、早慶を志望していたのですが、現役の時に合格を貰えず、予備校に通っていました。僕が依頼を頂いた10月の終わりは、受験にとって直前期です。

A君は既に十分な力がありました。何よりも自分の学力を客観的に判断し、今何をしなければならないかを把握し、それをやり抜く力を持っていました。つまり元々とても優秀な生徒でした。

A君はいわゆる有名な私立中高に通っていたわけではなく、学校内ではトップクラスだったようですが、受験的なノウハウは不足していて、予備校に1年間通うことで力がついたのでしょう。

そうは言っても、早慶を受験するにあたって、『確実に合格できる』と安心できるレベルに達することは、相当に難しいことです。まして最近は都内の私立大学の定員が減らされ、早慶明治あたりはどんどん難化しています。彼の場合、もともと理系だったこともあり、国語はなかなか合格点に達しないようでした。

そこで国語は僕、英語は別の先生に依頼し、直前に『あと一押し』をすることになりました。

A君は国語に苦手意識があり、『国語で稼ごうとはしていない』とよく言っていました。そこが彼の現実的な所でもあり、その戦略は成功したのですが、そうした自信のなさからか、『彼は国語を数学のように解こうとしている』と僕は感じました。

国語が苦手な生徒が陥りがちなのですが、『解法のコツ』というものに囚われてしまい、数学のように一定の公式にはめ込めば国語の問題だって解けるはずだ、と考えてしまうんですね。ですが国語の『論理』というのは、そんなに浅いものではありません。というのは数学と違い、国語の論理は、その要素となる単語・言葉・概念自体に定義の揺れがあるからです。

僕がA君に伝えたのは、『国語は数学とは違う』『本文を理解しなければ、設問をいじくっても答えにはたどり着かない』ということでした。もっと簡単に言うと『本文を楽しめ』ということでした。彼は国語に苦手意識がありましたが、苦手でも文章を楽しんでいけないわけはないですし、『苦手だ、苦手だ』と思い続けて読んでいては、得意にもなるはずがありません。

実際、ある科目に対する苦手意識などは、ほとんど思い込みです。現に彼は十分な読解力を持っていました。文転したことと、国語の勉強に十分な時間を割いていないことに、コンプレックスがあっただけなのです。

僕との勉強は過去問を先に解いておいてもらい、解けなかった問題・理解できなかった問題を解説する形でしたが、テクニック的なものよりも、本文をちゃんと理解しているかを確かめるようなものでした。彼は、ぶつ切りにされた部分部分の問題ではそれなりに正解していても、文全体の筆者の主張はまるで分かっていない、などということもありました。

それは特定の話題に対する論点が整理されていなかったからです。例えばTPPについて。TPPがどういうもので、どの国のどういう立場の人がどういう意見で、また別の立場の人がどういう意見で、、、ということが予め整理されていれば、いざ出題された時に筆者がどういう立場なのか把握しやすくなります。逆に予備知識が全くなくては、いくら本文中に答えがあるといっても、試験時間内で正確に全体像を把握するのは難しいでしょう。

毎回の授業で過去問を解くたびに、話が脱線することが多くありました。数問解くだけでも、いくらでも話すことがあり、時間が足りないくらいでした。そうしてその話題に関する全体像を掴み、その中で筆者がどの立ち位置なのかを考えられるようにしたつもりです。

古典(古文・漢文)に関しては、それほどの前提知識はいらないのですが、現代文よりもさらにテクニック的な部分に注意を削がれがちです。文法や単語の知識を詰め込むだけの勉強になりがちなんですね。上位校はそれだけでは合格できません。文法や単語は単なる道具であって、結局は作者の意図やストーリー展開や物語の味わいを理解できるようにならなければ読んだことになりません。しっかりした大学ほど、そうした部分を逃さずに問題として設定してくるんです。

古典に関しては、僕が「ここの文いいよね」と言い、A君が「よさが分からない」などと答えることがよくありました。彼はわりと現実的なしっかり者(経済学部的)で、僕はふわふわした空想的な人間(文学部的)なので、そうしたやりとりになったのでしょう。でも彼は僕の言うことに敬意を払って聞いてくれました。短い間でしたが、国語とは何か、文を読むとはどういうことなのかを考えるきっかけくらいは与えられたと自負しています。

受験は国語だけではありませんし、彼はもともと優秀な生徒でしたし、僕が教えたのは短い期間だったので、合格実績などというのもおこがましいのですが、こういったタイプの指導もあるのだということで報告させて頂きました。